積ん読を想う

本棚を見たら、買ったはいいものの読むのを忘れていた本、いわゆる積ん読が意外とあった。どれもこれも、いかにも「もうあなたに読まれましたよ」と言わんばかりに本棚に立っているから、これらが積ん読であることすら忘れていた。もっと激しく主張してくれたらいいのに、紙の束は声をあげようとしない。

積ん読はできるだけしないようにしている。そもそも、買ってすぐ積んでおけるようなものは買わない。そう決めていても、やはり私も人間なので積んでしまったようだ。ここ数年は特に意識が朦朧としているから仕方がない。

本棚の横幅いっぱいに、ぎちぎちに並んだ文庫本は、一冊一冊がしっとりと立っていて、毎日毎晩私が寝起きするのを斜め上から見ている。あまりにも「しっとりと立って」いるので、この中に読んでいない本があったとなると少し申し訳ない気持ちになる。「お座り」を命じられたまま放置された犬みたいに見えてくる。本にとってはご褒美だったらどうしよう。あなたのご主人様はあなたのことを数年もの間、完全に忘れていたよ。嬉しいかあ? 本には気持ちがないから想像するだけ無駄か。

ああ、それでも妄想せざるを得ない。こんな風にじっと立ったままでいて、まだ読まれていない三、四冊(そしておそらくもう数冊)の心中はいかばかりか。確実に中に何かが書いてあるのにこんなに放っておかれて、光の射さない部屋でじっと陰干しにされていたなんて。

私には、彼ら彼女ら*1を所有した責任があるし、きっと所有に至った理由もあるのだから、きちんと読まなければならないと思った。読書なんて好きな時に好きなようにやればいいのだが、やはり長年手元に置いておいたものに対しては特別な愛着がある。読んでいなかったとしても同じだ。私の生活の風景の一部はどんな中身をしているのか、すべてはわからなくても、書いてある文字くらいは一度頭に通してしまわないと気が済まない。

長々と書いたけれど、積ん読を読む決意をした理由は結局「私の気が済まないから」でしかない。本の気持ちを想うなんて、インクの染みに意味を見出す例のテストと何が違うのだろう。

というわけで今日から小川洋子『猫を抱いて象と泳ぐ』を読み始めた(『この今更感がすごい!2017』大賞候補)。ぱらぱらと捲ってみると、どうやらこの本については、だいぶ前に少し読んでいたものと思われた。栞の位置に恣意的なものを感じたからだ。読み始めてみると、記憶のどこかにいくつか引っかかる箇所があった。やはり最初のほうは手をつけていたようだった。あと30ページほどは過去の自分と答えあわせをしながら読んでいくことになりそうだ。

*1:本に性別はあるか。そんなこともう誰かが一億回は考えてきたと思う。私にはわからない。フランス語なら確か男性名詞だったと思う。だからなんだと言うのだろう。人の性別さえも二分割できないことがわかっている昨今、物の性別なんて気にしても外国語の勉強にしかならないかもしれない。そもそも、本には名前がついているんだからそれを読んで或いは呼んでしまえばそれで済むのだ。というか、擬人法を使うのをやめればいいのでは……。