タモサーと愛

タモリさんはタモサーの姫だし、オタサーの姫はある種のタモリさんなんじゃないかと思った。「思った」というより「受信した」感じ。オタサーの姫を目撃したこともないのに。タモリさんに関して一家言あるわけでもないのに。

「それとそれを一緒にしちゃだめだよ」と思う自分もいるし、「見れば見るほど似ている」と思う自分もいる。頭の中で雑な連想ゲームをするからこうやってわけがわからなくなる。ただ、姫になるのも姫でいるのも大変なんだろうな、ということだけはハッキリとわかる。

実は、ここに至るまでにハチャメチャに面白い(つまり「酷い」)ことを思いついて、一人でゲラゲラ笑っていた。企画としてかなり興味深いものなのでぜひ誰かと共有したい。簡単に説明すると、XXXとXXXXのXXXXXXXXをXXXXX、なんとなくXXXXXXにXXXそう。という内容。説明できなかった。ここに書くには心の障壁が高すぎた。いつか誰かに話せたらいいな。しかし、話す相手がかなり限られるのでお蔵入りの可能性が高い。

そしてタモリさん、巻き込んでしまってごめんなさい。

 

ラジオで、

「愛とは、自分が『愛している』と思っている相手に命を捧げられるかどうかだ」

という話をしていた。

私はこの話を「目の前に包丁を持った人が現れて、対象に危害を加えようとしたら身を挺して守れるか」という単純なレベルでとらえた。

そういう対象があるか本気で考えた結果、マジで自分の家の猫しか思い浮かばなかった。逆に言うと、猫は思い浮かんだ。これは奇跡だから自分の家の猫を大事にしたい(これは愛なのか)。

 

猫の他はどうでもいい。

どうでもよくったって、多少は情と時間と手間をかけることもあるけれど、それらはあくまで命の一部であって、全てでは無い。

たとえば、もう何年も大切にしていて私を支えている趣味、服やCDやDVD、PCを理不尽な暴力によって壊されたとしても、それは悲しい。怒る。でも、ものは壊れてしまうから、諦める。

私の好きなアイドルが目の前で理不尽な暴力にさらされようとしているなら、正当な方法で守る。でもいつもいつでも彼女たちのそばにいることはできない。遠くで起きてしまったら……私には悲しむことと悼むことしかできない。

つまり、私にできそうなことのライン、別名「諦念のライン」を常に引いている。この線が、猫に対しては無い。

 

たいていのことについて、

「私がやらないなら(いないなら)だれかがやってくれる(いてくれる)。だれもやらない(いない)なら、それはそもそも私がやる(いる)必要もなかったことだ」

と思っている。それは一種の諦めだし、怠惰だ。それでも、別に私がやらなきゃいけないこと、私じゃないといけないこと、なんていうのは、この世のどこにもない。と、とてもフラットな気持ちで思っている。

ここでふと、「私が死んでも代わりはいるもの」という超有名な台詞を思い出す。

これを聞くたびに「代わりがいるってすごいねえ。しかもいろんな大人がたくさん代わりを作ってるんでしょう。それは今、あなた及びあなたのしていることに需要があるからだよ」と思う。

だから、たとえば私が死んでも代わりはいらない。

でも、うちの猫が死んだら代わりはいない。うちの猫には私からの需要がある。

この「需要がある」が愛であるかは、知らない。

 

このラジオ、他にもいろんな話をしていて面白かったので、なんらかの手段でまた聞かなければ。

 

頭の調子がほんとうに久々に混沌極まりない状態でdead or alive、……たみが極まる状態になってきたので、二の腕の裏にできた謎の赤い点線を眺めてぼーっとしていたい。なんじゃこれ。内出血?こんな形に?心当たりは……。ははは。はい。

とろんとろんと寝たい。