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おとなのふりかけと生活の気配

 いやあ〜、一生おとなのふりかけのことばかり考えていたいもんですな。

 おとなのふりかけ、ご存知ですか?知らない人の方が少ないんじゃないかしら。永谷園のベストセラー(おそらく)ですよ。

 わたしは、白飯をそのまま食べられる人間で、ふりかけを使う機会はそんなにありませんが、おとなのふりかけは好きです。「おとなのふりかけミニ」を1パック買って置いておくだけで、一年くらいは、いや盛りすぎか、二ヶ月くらいは戦えます。

 おとなのふりかけ良いなあ〜。まず、名前が良い。おとなのふりかけですよ。大人だけでなく子供の心までも勝手にくすぐってしまうネーミング。考えた人、天才ですよ。すごい。ノーベルふりかけネーミング賞があったら、「のりたま」に次いで受賞するような名前です。そういえば、のりたまは丸美屋でしたね。丸美屋永谷園に味覚を調教されてしまっています。何があんなに美味しいのか、まだわかりません。もしかして「うまみ成分」なんでしょうか。それで、うまみって一体なんなのでしょう……。

 

 おとなのふりかけの話に戻ります。

 おとなのふりかけって、おとなのふりかけ故か、ラインナップに生活感が溢れていますよね。そこにグッときます。

 スーパーのふりかけコーナーで、おとなのふりかけミニが1パックだけ売れているようなのを見ると、どうしても想像が広がります。

 どんな人が買っていったんだろう、何に使うんだろう。4種類ある味のうち、どれが食べたくて買ったんだろう。いや、他の組み合わせのパックに苦手なものがあって、消去法でこれを選んだのかもしれない。誰かに頼まれて買ったのかもしれない。今夜はふりかけでご飯を食べるのかな。今夜食べるとしたら何味なんだろう。

 ……おとなのふりかけの向こうにある生活の気配に、脳が刺激されてしまいます。なんてったって、おとなのふりかけですからね、買っていく人はきっとおとなですよ。おとながふりかけを買うんです。白い飯を食べるために。白い飯をおいしくするために。もう、そんなもん「生活」じゃないですか。人間の生活です。どんなに手を伸ばしても届かない、交わることのない他人の人生です。

 電車に乗っている時に、「ここにいる人、ひとりひとりにそれぞれの過去があって、どこかを目指していて、想定している未来があって、きっと帰る家もあって、もしかしたら帰らない人もいて……」と想像してしまうことがあります。

 すると、冷たいものがスッと背筋を落ちていきます。まるで、黒い壁だと思っていたものが実はただの白い壁で、黒く見えていたのは大小さまざまな蛾の集まりによるものだった……とわかった時のように。鳥肌の立つようなおぞましさ、吐き気がするほどの後悔、今すぐここから逃げたい気持ち、この世の容赦ない不思議さ。そういうものが束になって襲いかかってきます。

 おとなのふりかけに滲む生活の気配は、これと少し似ています。ただ、電車の中の他人たちの生活の気配より、よほどやわらかくておとなしいものです。妙な親近感や、安心感さえあります。それはおそらく、「おとなのふりかけ」という盤石のブランドに支えられたものでしょうし、わたし自身もおとなのふりかけ愛好者であるという一方的な共感に基づくものでもありましょう。

 だから、今日もついつい想像してしまうのです。おとなのふりかけを買っていったのが誰で、一体どんな人なのか。

 そんなことは、わたしには知り得ない情報ですから、好き放題です。そして、あのおとなのふりかけを買っていった人も、わたしのこんな気持ち悪い妄想なんて知り得ないはずです。いや、知りようがありません。ここまで全部わたしの妄想なので。

 おやすみなさい。