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きょむきょむぷりん

 むかしむかしあるところに、おじいさんとおばあさんが住んでいました。ちなみに、私は今この辺に住んでいます。

 おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へお洗濯に行きました。ちなみに私は所用があり、外に出ていました。

 おばあさんが川でお洗濯をしていますと、大きな桃がどんぶらこどんぶらこと流れてきました。ちなみに、私が外で用を済ませていましたら、大きな疑問がどんぶらこどんぶらこと流れてきました。

 おばあさんは大きな桃を割ってみました。すると、なんということでしょう。男の子が飛び出してきました。ちなみに、私も大きな疑問を割ってみました。すると、なんということでしょう。虚無が飛び出してきました。

 おじいさんとおばあさんには子供がいませんでした。なので、男の子が現れたことを大層喜び、「桃太郎」と名付けて大切に育てました。ちなみに、私には虚無がよくあるので、特に喜びませんし、名前は最初から「虚無」です。大切にしているつもりもないのに、虚無はどんどん育っています。

 ある日、桃太郎は鬼が島に鬼退治に行くことになりました。おばあさんは桃太郎にきびだんごを持たせて、桃太郎を送り出しました。ちなみに、私の虚無はどこにも行きません。送り出すことも諦めました。

 桃太郎が歩いていると、サル・犬・雉がそれぞれやってきて、きびだんごと引き換えに旅のお供になりました。ちなみに、私の虚無は虚無ゆえにさまざまな感情を引き起こします。何を食べているのかもわかりませんから、何かと引き換えにお引き取り願うこともできません。

 桃太郎とサル・犬・雉は鬼が島にやってきました。鬼がいました。全力で殺しました。お宝をゲットしました。ちなみに、私の虚無は私を全力で殺そうとします。

 鬼が消えて、桃太郎は金銀財宝を持ち帰って、おじいさんとおばあさんは世界一Happyな女の子(或いは男の子)になりました。ちなみに、『世界一Happyな女の子』のPVの始まり方は、ちょっとだけ『ドリフの大爆笑』みたいです。虚無をアルコール消毒するような音声ばかり聞いてしまいました。

 ここで一句。「しづかさや 虚無に染み入る 推しの声」

 めでたしめでたし。ちなみに、私が最近虚無になったトピックの一つは「zozoタウンのツケ払いシステムの存在」です。

 

 

 どうせだからちょろっとツケ払いシステムのことでも考えて寝ようかな。虚無が居座っていることだし。

 あんなの……あんなのこわい……。どこかにおそろしいことが起きそうな気がして……。しかも全部「人間は悪い」「社会は悪い」「こわい」「つらい」あたりに落ち着きそうな気がして……。

 ああ怖がるだけになってしまった。エネルギー落ちてる。めでたしめでたし。虚無にやさしい音楽聞いて寝ます。おやすみなさい。

「モッズコート」の「ズ」

 もう我慢できないので言いますが、「モッズコート」の「ズ」の寸づまり感、すごく気になります。モッの後にズ、非常に相性が悪い気がしています。

 英語だとMods coatとのことで、google翻訳で発音を聞いてみました。やっぱりすごく寸づまりな感じがします(機械音声の問題かもしれませんが)。

 

 「モッズコート」と言うときは、何かを非常に我慢しながら発音しています。その「何か」がなんなのか、いまだによくわかりません。

 いま敢えて言語化するなら、鼻と息と舌と歯の関係に問題がある感じがします。「モッズ」と言うとき、ギスギスした職場が口の中に形成されてしまう、といったところでしょうか。ところでしょうかって言われたってわかんないよな。めちゃくちゃだよな。

 歌詞に「モッズコート」が出てくる曲ってあるんでしょうかね。他人の「モッズコート」がどんな感じで出てくるか、じっくり何度も聞いてみたいです。寸づまり感のない「モッズコート」があるなら是非聞いてみたいものです。「ああ、こんな風に言えば何も我慢しなくていいんだ!」と気付きたい気持ちでいっぱいです。探さなければ。

 いま、別のタブを開いて「モッズコート 歌詞」でググってみたら、セカオワさんのドラゲナイの話ばかりがhitしてしまいました。試しにDragon nightの歌詞を読んでみたものの、モッズコートに関する言及などありませんでした。

 そりゃそうじゃ! と脳内のオーキド博士が叫び、私はタブをそっと閉じました。

 

 モッズコートとは逆に、言っているだけで気持ちいい言葉というものもあります。

 例えば「ベーコンエッグ」です。「ベー」でなんとなく始まって、「コン」で軽快さが飛び出すと共に少し音がこもりますが、「エッ」でこもりは即座に解消され、「グ」でなんとなくしめちゃう。ストレートな気持ちよさではありませんが、緊張と緩和を一度に楽しめる気がして、お気に入りです。なんとなく美味しそうに響くところもポイント高し。

 意外と気持ちいいのは「新春シャンソンショー」なのですが、早口言葉ゆえに達成率が低く、たまに歯がゆい思いをします。

 ただ、ゆっくりと、ぼーっとしながら呟くときには最適です。しんしゅんchansonしょー……です。chansonでどうしても鼻を使わざるをえませんが、あとはほぼ吐息でいけます。素直にしんしゅんしゃんそんしょーと言えばもっと楽です。口元はしゃわしゃわしてくすぐったいのですが、それが良いです。まったりできます。深呼吸の代わりにもおすすめです。

 

 口ずさむと気持ちの良い曲というのもありますが、それはまた今度書くかもしれません。

 どうでもいいことをたくさん書けて、今日も満足です。おやすみなさい。


めざせポケモンマスター

悲しみなんて無いほうがいい

 テレビを見ていたら、

「このあと、激しい揺れや津波の映像を流します。ほにゃららな方はご視聴をお控えください」

みたいな文言がテレビから聞こえてきて、

「あ〜、『嫌なら見るな』って遠回しにこう言うんだ〜」

と学んだ。

 こちらとしては、「そのような映像でしたら、ご放送をお控えください」と思うんだけど、まあ流したいなら仕方ないわな。

 というわけで、見なかった。

 

 あんなもんいつ見てもきつい、悲しい。

 

 なんの歌だか忘れたけれど、

人は悲しみが多いほど 人には優しくできるのだから

という歌詞がある。ああ、武田鉄矢の『贈る言葉』だった。

 その直前の『悲しみこらえて微笑むよりも〜』には「ほんとそれな」と思う。

 けれど、人に優しくできることと引き換えにするくらいなら、悲しみなんて絶対に多くないほうがいい。できれば一切ないほうがいい。悲しみなんていらない、一つもいらない。

 悲しみが多い人に、「人に優しくできる」ことを利点として教えるのはあまりにも……あまりにも、嫌だ。救いがないとさえ感じる。この歌詞に救われる(救われた)人も多いには違いないけれど。

 

 武田鉄矢の歌詞に何を熱くなっちゃってるんだろう。なんでだっけ。

 ああそうだ、ニュースで「あの日から六年です」と伝えられるたびに、こんな悲しいことは二度とごめんだ、と強く思ったんだった。
 そこに偶然、記憶の彼方からこの歌詞の一節が飛んできて、ぶつかった。とばっちりだ。ごめんね、鉄矢。そんなつもりじゃなかったの(あらゆる罵声や悪口をキャンセルする言葉として学習した言語・その1)。

 

 でもね、やっぱり、人に優しくできるとしても、悲しみはもう要らないよ。あんなのはもうたくさんだよ。

 自然災害だけじゃなく、生きてりゃいろんなことがある。

 つらいこと、苦しいこと、イライラすること。これは時間と休息、適切な対処で少しずつ少しずつ改善し得るものだと思う(嫌なもんは嫌だけど)。

 だけど、「悲しいこと」には終わりが見えない。

 

 「今日(11日)から数日間、ものすごくたくさんの人の命日なんだ」と気付いたときに、今日はもうだめだ、と思った。イメージした「悲しみ」の総量があまりにも多すぎて、完全に当てられてしまった。

 震災に限らず、いろんな災難がある。悲しみの数だけ災難がある。

 災難になんて遭わないのが一番いいじゃないか。

 それを乗り越えたら人に優しくできるとしても、乗り越えられなかったらどうなってしまうの……。悲しいことなんて、無いほうがいいよ。一切なくなってくれよ。無理だとしても願わせてほしい。悲しいことはもう嫌だ。

 (殺したいほど嫌いな人&「悲しいこと」に性的興奮を覚える人以外の)どんな人にも、猫にも、他の動物にも(虫でさえも!)、悲しいことがなくなりますように。

 

 そういえば「悲しみはもうたくさんなんだ」っていう歌詞の歌があったっけな。

 私もそう思う。悲しみはもうたくさんだ。


【輪るピングドラム】dear future/coaltar of the deepers【ED】

 

 若干興奮しちゃった。おやすみなさい。

長い胸

 子供の頃、夏休みにプールに行ったら、おばあさんが胸をモロ出しにしていた。モロ出しになった胸は、ちょっと信じられないくらい長かった。右胸をぺろっとめくりあげて右肩に乗せ、天日干ししていた。

 衝撃を受けた。たかだか小学2〜3年生ぐらいだった私は、あのおばあさんが自分と同じ人間には思えず、母と同じ人間にも思えず、というかその場にいた他の誰とも同じ人間には思えなかった。胸というか、おっぱいひとつであんな破壊力をもたらす存在とは。

 今となっては、当時の私が本当に「それ」を見たのか定かではない。ただ、真夏の太陽に照らされて白く光っていたおばあさんのおっぱいの裏側のことだけが頭から離れない。

 

 ここ数年で、おっぱいというのはどうやら本当に長くなるものらしい、とわかった。同世代の他人のおっぱいを銭湯などで観察して、なんとなくわかった。ただし、私のは長くなる素養が全然ないので(察しろ)、日に日に増す肩にのしかかるような焦り、つらさ、悲しさ、虚しさのようなものはまだわからない。死ぬまでわからないかもしれない。……わからないだろうな。

 胸部に迫力がある人への憧れは、一時期は強かった。わたしはいずれ豊胸するんだろうと本当に思っていた。いろいろなものに絶望していたのだ。

 今はそのあたりの絶望が減ったのか、ただ単に諦めたのか、「まあいいや別に……」の段階に到達した。

 大は小を兼ねる、一長一短、帯に短し襷に長し。

 全部真実だとしたら……せめて襷くらいには、と思わなくもないけれど、「大」を兼ねられない「小」にも「一長」が本当にあるっていうのなら、それでいいんじゃないかと思った。「一短」どころじゃない気がしちゃうけど。一長って、ごく限られた利便性としての一長でしかないんじゃないかとも思ったけど。

 ああ、諦めたんだな、これは。99%諦めることができた。言ってしまえば、興味がなくなったのだ。だからもう、これはこれでいいや。

 

 ……というようなことを母に話したら、母は鼻で笑って「小さくても垂れるらしいよ〜」とニヤニヤしながら伝えてきた。やっぱり人間は悪い、本当にこの世はクソ、世界爆発しろ、いやもういいわ人間なんて世界なんてもういい、私が今すぐ死ねばいいだけだ……に一瞬で到達しかけた。

 しかしそのとき、私の脳裏をよぎったのは、燦然と輝くおばあさんの右胸(の裏)だった。

 きっとあれは、もともと大きかったのに加えて、妊娠して胸が膨らみ、大きくなりきった結果で、その後、日々の生活を重ねて少しずつ長くなっていった、由緒ある右胸だったに違いない。

 「私のはきっと、あんなに長くできないし、ならないだろうな」と、自分の胸に手を当てて考えてみた。手は「できないし、ならないでしょうね」と答えた。

おとなのふりかけと生活の気配

 いやあ〜、一生おとなのふりかけのことばかり考えていたいもんですな。

 おとなのふりかけ、ご存知ですか?知らない人の方が少ないんじゃないかしら。永谷園のベストセラー(おそらく)ですよ。

 わたしは、白飯をそのまま食べられる人間で、ふりかけを使う機会はそんなにありませんが、おとなのふりかけは好きです。「おとなのふりかけミニ」を1パック買って置いておくだけで、一年くらいは、いや盛りすぎか、二ヶ月くらいは戦えます。

 おとなのふりかけ良いなあ〜。まず、名前が良い。おとなのふりかけですよ。大人だけでなく子供の心までも勝手にくすぐってしまうネーミング。考えた人、天才ですよ。すごい。ノーベルふりかけネーミング賞があったら、「のりたま」に次いで受賞するような名前です。そういえば、のりたまは丸美屋でしたね。丸美屋永谷園に味覚を調教されてしまっています。何があんなに美味しいのか、まだわかりません。もしかして「うまみ成分」なんでしょうか。それで、うまみって一体なんなのでしょう……。

 

 おとなのふりかけの話に戻ります。

 おとなのふりかけって、おとなのふりかけ故か、ラインナップに生活感が溢れていますよね。そこにグッときます。

 スーパーのふりかけコーナーで、おとなのふりかけミニが1パックだけ売れているようなのを見ると、どうしても想像が広がります。

 どんな人が買っていったんだろう、何に使うんだろう。4種類ある味のうち、どれが食べたくて買ったんだろう。いや、他の組み合わせのパックに苦手なものがあって、消去法でこれを選んだのかもしれない。誰かに頼まれて買ったのかもしれない。今夜はふりかけでご飯を食べるのかな。今夜食べるとしたら何味なんだろう。

 ……おとなのふりかけの向こうにある生活の気配に、脳が刺激されてしまいます。なんてったって、おとなのふりかけですからね、買っていく人はきっとおとなですよ。おとながふりかけを買うんです。白い飯を食べるために。白い飯をおいしくするために。もう、そんなもん「生活」じゃないですか。人間の生活です。どんなに手を伸ばしても届かない、交わることのない他人の人生です。

 電車に乗っている時に、「ここにいる人、ひとりひとりにそれぞれの過去があって、どこかを目指していて、想定している未来があって、きっと帰る家もあって、もしかしたら帰らない人もいて……」と想像してしまうことがあります。

 すると、冷たいものがスッと背筋を落ちていきます。まるで、黒い壁だと思っていたものが実はただの白い壁で、黒く見えていたのは大小さまざまな蛾の集まりによるものだった……とわかった時のように。鳥肌の立つようなおぞましさ、吐き気がするほどの後悔、今すぐここから逃げたい気持ち、この世の容赦ない不思議さ。そういうものが束になって襲いかかってきます。

 おとなのふりかけに滲む生活の気配は、これと少し似ています。ただ、電車の中の他人たちの生活の気配より、よほどやわらかくておとなしいものです。妙な親近感や、安心感さえあります。それはおそらく、「おとなのふりかけ」という盤石のブランドに支えられたものでしょうし、わたし自身もおとなのふりかけ愛好者であるという一方的な共感に基づくものでもありましょう。

 だから、今日もついつい想像してしまうのです。おとなのふりかけを買っていったのが誰で、一体どんな人なのか。

 そんなことは、わたしには知り得ない情報ですから、好き放題です。そして、あのおとなのふりかけを買っていった人も、わたしのこんな気持ち悪い妄想なんて知り得ないはずです。いや、知りようがありません。ここまで全部わたしの妄想なので。

 おやすみなさい。

なんでもフラットにしている

 スケジュール帳ってめちゃくちゃいいですね。何かをやってるような気持ちになって、非常に精神に良いです。へばりついている虚無のことは敢えて無視しています。

 以前は、やたら分厚くて、無駄に機能が多い手帳ばかり使っていました。「いつか役に立つかもしれない」と「これがないと困る状況が来るかもしれない」がダブルで殴りかかってくるので、どうしても多機能のものを選びがちでした。結局、ほとんど使わないで終わってしまうのですが……。

 今は「無かったら足せばいい」くらいまで落ち着いてきたので、ペラッペラのちっちゃい手帳を使っています。そもそも書くことがそんなにありません。最後まで飽きないで使えますように。

 

 最近、比較的フラットな気持ちです。すごいことです。フラットすぎて、複雑なことをやる気が起きません。呪詛とか怨念とか全然ありません。なので、単純作業ばかりしています。そうして、もっと気持ちがフラットになっていく……という、良いのか悪いのかよくわからない循環の中にいます。今までよりももっと頭を使わなくなっていくわけですが、これでいいのかは全くわかりません。

 つい昨日か一昨日、私は鳥に興味がないということを知ったばかりではありますが、オウムにでもなりたい気持ちです。あれ、人外に憧れていますね。安定した低空飛行なんでしょうか。自分の高度ってよくわかりませんね。

 ああでも、今日ひさびさに、ニュース見てキレました。「平成の阿部定事件!?」みたいな内容のドラマのタイトルが『さよなら、きりたんぽ』だったから揉めた、という話。

 読んだ瞬間、「馬鹿野郎」って声に出してしまいました。そりゃ揉めるでしょうし、ちゃんと揉めてくれてよかったです。きりたんぽ食べづらくなるからやめろ。鍋囲んで「そういえば、ちんぽ……」とか思いたくないから本当にやめろ(※やめてくれるみたいで、心底安心しました)。

 ひとしきり怒った後、きりたんぽ以外のパターンを考えてみよう、という気持ちにもなりましたが、考える意味がないのですぐにやめてしまいました。

 感情の起伏がこの程度なので、やっぱりフラットですね。よかったよかった。

 

 日記、日記としては……難しそうな手続きをサクッと終わらせました。えら〜い。偉いから、早くコンピューターになりた〜い。機能になりた〜い。

 以上です。おやすみなさい。

「死んだほうがマシ」の中を征く

 多種多様な、でも同根の「死んだほうがマシ」を抱えながら、日常をやりすごすのが私の人生なのかなあ、と思った。

 

 「こんなことするくらいなら死んだほうがマシだ」と思うようなことは、たくさんある。これはあくまで私の場合であって、私の問題だ。この世がどんなに嫌でも、私にこの世を変える力は無い。だから、死んだほうがマシなことでも、普通にやってのけられるほどの強さを身につけなければならない。これは全てこの皮膚の内側の問題だから、なんでも全部内側に抱え込んでいくしかない。外に出してしまえば、たちまち厄介なことになる。

 おそろしいことに、何回「死んだほうがマシだ」と思っても、私が実際に死んだことはない。面倒でも、この気持ちを抱えながら死ぬのを待つしかないだろう。

 一番面倒なのは、「死んだほうがマシ」と思う心を捨てたくないことだ。これを捨てるくらいなら死んだほうがマシ。一生付き纏ってもらうしかない。ああ面倒臭い面倒臭い。だけど、こればっかりは仕方ない。

 というわけで私はこれから、死んだほうがマシだと思いながら、たまに柱に額を打ち付けながら、酒を飲みながら、叫びながら呻きながら泣きながら壁を殴りながら死にたくなりながら、なんでもやるしかない。……という結論に至る。ゲロ吐きそう。

 でも、ずっとそうやって生きてきたような気もする。みんな(目に見えない連帯、この世でもっともおぞましいが強大なもの)もそうやって生きてるのかしら。

 

 もうちょっと、この辺のことは考えておこう。

 これまで、このやり方でなんとかできたのは私の実績でもなんでもなくて、単なるなりゆきだ。運の良さによってもたらされた現状でしかない。

 今後、この路線で行って、どんなひどいことが起きそうか。ひどいことになったら、どうするのか。死ぬのか。路線変更できるか。そうするとどうなるのか。「死んだほうがマシ」がさらに増えるだけか。その質と量に今度こそ耐えられなかったらどうするのか。このままやっていって、何か楽しいことや上がり目はあるのか、ないのか。なかったらどうするのか。死ぬのか。死ぬのかなあ。人はいつか死ぬけどさ。それなら……やめやめ。これ以上はなんらかのコードに触れそうだから、やめやめ。反吐が出る。

 今後良くなる可能性は、考えても仕方ない。夢でしかない。

 ところで、最悪の事態を想定するのも、希望的観測も、等しく妄想なのに、どうして希望的観測だとポジティブって言われて褒められたりするのだろう。どうして最悪の事態を想定すると、最悪の場合は治療対象になってしまうのだろう。どうして……もうやめよう、馬鹿馬鹿しい。私にこの世を変える力は無い。

 とにかく、未来が良いかどうかなんて、生き残ってしまえば、後からいくらでも自由に決められる。それこそ「都合良く」。だから、良くなる可能性なんて今考えても仕方がない。生存バイアスの力を信じている。

 

 よし、今日はこのぐらいでいいや。別に今はそこまで死にたくないから。

 死んだほうがマシな状況なんて、生きてる限りずっとあるけど、金さえあればなんとかなるし、今は余計に不快に思いたくもない。

 今日ちょっとこねくりまわしたかっただけ。こねくりまわしすぎたな。日記だねえ〜。

 

 こんなタイトルだし、ど定番だけど生きマシでも貼っておくか。


syrup16g - 生きているよりマシさ (MV)

 

 でも、歌詞的にハピネスの方が私の心情に合っているので、最後はハピネスにしよう。

 五十嵐いつもありがとう。おやすみなさい。


Syrup16g - ハピネス